間々田のじゃがまいた

       

祭りの概要

毎年5月5日に行われる「間々田のじゃがまいた」は、田植えの時期を前に五穀豊穣や疫病退散を祈願するお祭りです。
祭りの主役となるのは子供たちで、長さ15mを越える龍頭蛇体の巨大な蛇(ジャ)を担ぎ「ジャーガマイタ、ジャガマイタ」のかけ声とともに町中を練り歩きます。
蛇や龍をテーマにした行事は日本各地に見られますが、間々田のじゃがまいたは蛇体を使って邪気を祓ったり、蛇体に災厄を託して送ったりする形態の蛇祭りで、この種の行事の典型例として重要である一方、祭りにたくさんの蛇体が登場するという、他の類似の祭りには見られない特徴があります。また蛇体を池に入れ、農作物のための降雨を祈る雨乞いの要素も見られ、我が国の民間信仰を考える上でも大変貴重であることから、平成31年に国の重要無形民俗文化財に指定されました。

《令和6年度 開催日程》
■開催日:5月5日(こどもの日) 〜雨天決行〜
■会場:間々田八幡宮境内
■蛇寄せ:午前10時30分より
■修祓式:午前11時より
■開会式:午前11時30分より
■担ぎ出し/水飲みの儀:正午より

《当日の駐車場について》
■駐車場①
間々田中学校校庭 特設駐車場(約150台)
■駐車場②
小山市間々田市民交流センター「しらさぎ館」(約100台)

※駐車台数に限りがありますので、なるべく公共交通機関をご利用ください。

なお間々田中学校は教育施設ですので、保安上8:00に開門し、14:00に閉門します。
閉門後は出庫できなくなります。必ず14:00までに退出してください。

祭りの流れ

① 蛇(じゃ)づくり

蛇づくりは、じゃがまいた実行委員の指導のもと、中学生を中心に七つの町内それぞれで独自に行われます。なかでも蛇頭(じゃがしら)と呼ばれる蛇の頭部は、各町の個性が最も表れる部分で、製作にも自ずと力が入ります。

② 蛇の集合

祭り当日、早朝からの作業でこけらなど最後の飾り付けを終えた蛇は、各町内を出発し、午前10時30分頃に間々田八幡宮に集合します。間々田八幡宮境内では、蛇を迎える太鼓の演奏が行われ、祭りの雰囲気を盛り上げます。

③ 蛇よせ・修祓式

午前10時30分を過ぎると、蛇を八幡宮本殿前に集める「蛇よせ」が、続いて午前11時頃からは「修祓式」が行われます。修祓式では七体の蛇が宮司からお祓いを受け、口に御神酒を注がれ、本殿を一周した後に「水飲みの儀」に向かいます。

④ 水飲みの儀

「水飲みの儀」では、弁天池に思い切りよく蛇の頭を差し入れ、豪快な水しぶきをあげながら水を飲ませます。中には担ぎ手もろとも池に飛びこみ、弁天池狭しと暴れ回る蛇もあり、1万人を超える見物客から大きな歓声が湧きます。

⑤ 練り歩き

「水飲みの儀」を終えた蛇は、それぞれの町内に戻り辻々を練り歩きます。このとき玄関に蛇を招き入れ、蛇の力によって厄除けと家内安全を祈願する家もあります。祈願を終えると、担ぎ手に賽銭を包むのが古くからの慣習です。

⑥ 蛇もみ

祭りの終盤となる夕刻頃には「蛇もみ」が行われます。かつてのように喧嘩腰で蛇をぶつけあうことはなくなりましたが、土煙をあげて巨大な蛇体が舞いうねる様は、祭りのクライマックスにふさわしい勇壮なものです。

祭りの起源

口伝によると、じゃがまいたはすでに400年近く続く祭りであるということですが、その起源をはっきりと示す資料は現在のところ見つかっていません。ただ、間々田の町にはこの祭りの始まりを伝えるいくつかの言い伝えが存在しますので、ここではそのうちの代表的な2つをご紹介します。

【八大龍王信仰説】

釈迦誕生の時に、八大龍王(難陀<なんだ>、跋難陀<ばつなんだ>、娑羯羅<しゃがら>、和修吉<わしゅうきつ>、徴叉迦<とくしゃか>、阿那婆達多<あなばだつた>、摩那斯<まなし>、優鉢羅<うはつら>の8匹の龍)が龍水を降らせたという故事にちなみ、ほどよい雨による農作物の豊かな実りを祈願する八大龍王信仰が間々田の地にも伝わり、やがて村人たちは龍を模した蛇体を作り、これを御輿のようにかつぎ回って、雨乞い・五穀豊穣・疫病退散を祈願するようになったとする説。

【法隆東林の雨乞い疫病よけ説】

かつて龍昌寺の住職であった法隆東林が、当時この地域を襲った日照りと疫病の流行による民衆の困窮を見かねて、八大龍王になぞらえた龍の模型を作り祈祷したところ、たちどころに雨が降り疫病もやんだので、それ以来各町内で蛇を作り、祭りを行うようになったとする説。

現在、じゃがまいたの起源を示す説として町の人々に最も広く認識されているのは「八大龍王信仰説」で、これは間々田八幡宮に「八龍神社」が祀られていることや、戦後になって蛇の先頭に「八大龍王」の旗を掲げて練り歩くようになった影響も大きいと思われます。いずれにしても、祭りの起源については、さらなる検証・資料の発掘が期待されるところです。

祭りの変遷

じゃがまいたの祭りの姿がおぼろげにつかめるのは、江戸末期以降です。
当時は、現在の間々田3丁目にあった上原雅輔氏(旧間々田の名主)宅を境として、南を「下坪」、北を「上坪」と称し、それぞれ一体の蛇を作って祭りを行っていたようです。
現在とは違い、主に若衆を中心にかつぎまわされた蛇体は、祭りが終了すると下坪の蛇は現在の間々田1丁目の「逢いの榎」の下に、上坪の蛇は松原に捨てられたそうです。
その後、蛇は上・中・下の3地区で作られるようになり、各町内の少年や若衆たちが、印半纏(しるしばんてん)にワラジがけという軽装で、蛇をかついで暴れ回ったそうです。

続いて明治時代になると、間々田は1丁目から5丁目までに分かれ、各町内で一体ずつ蛇が作られるようになります。この当時は、昼は少年たち、夕方から夜にかけては若衆組が蛇を担ぎ、特に夜は御神酒に酔った若衆の喧嘩が絶えない荒っぽい祭りであったようです。

この頃の担ぎ手の服装は、野良着にわらじ履きという素朴なもので、田植え前の田んぼに入って「ジャーガマイタ、ジャガマイタ。シーガツヨウカノジャガマイタ」とどなりながら激しくもみ合ったそうです。このときに、わらじが傷んだり切れたりしたため、御神酒の他にわらじ銭をもらう風習が生まれたようです。

昭和に入ると祭りはますます盛大に行われるようになり、蛇体も次第に大きくなっていきました。現在は少なくなってしまいましたが、昭和の初期頃までは、蛇が町内各戸の門口に首を差し入れることで厄祓いをし、お賽銭(御神酒銭・わらじ銭)をもらっていたようです。このとき、家の者は御神酒を杯に入れてうやうやしく捧げ、蛇の口に注ぐのが習わしだったようです。
また3丁目の蛇だけは、旧間々田の名主であった上原雅輔氏の土蔵の周りを三回まわるしきたりがあったそうです(「蔵まわり」)。

この当時も、昼間は子供、夜は若衆が担ぐという祭りの形態が続いており、日が暮れると勢い込んだ若衆に担がれた蛇が町のそこかしこでもみ合い、尾を交錯し合って、それはそれは勇壮な祭りであったそうです。

この蛇をぶつけ合う「蛇もみ」の風習は、昭和50年代頃から一時姿を消していましたが、最近一部の町内が間々田小学校の校庭で昔のような激しい蛇もみを復活させ、祭りの新しい見どころとなりつつあります。

ちなみに、昔から変わらない「じゃがまいた」というかけ声については、「蛇が参った」から「蛇がまいた」に変わったとする説と、「蛇が巻いた」(蛇がとぐろを巻く、くるくると回る)から変わったとする2説が伝えられています。

じゃがまいた ギャラリー

電話をかける